地震の体験談(6.1.17)
<被災ローン減免制度>
6年1月1日に発災した能登半島地震
住宅被害が多数となりました
中には住宅を建てたばかりの方もいらっしゃったとのこと
胆振東部地震の時にも土地の崩落によって
新築半年で全壊扱いとなってしまった被災者がいました
「被災ローン減免制度」の案内を知って手続きしましたが
結果からいうと、適用にはなりませんでした。
この制度には以下の要件を満たす人が対象です
●地震の被害によって「ローンが返せない」あるいは、
「返せなくなる見通しに」になった
●世帯の年収が730万円未満
●ローンの返済額と、新たに借りる家の家賃などの
負担の総額が年収の40%以上
要するに、全ての財を返済にあて
かつ、職を失うあるいは働けない状況になった場合や
無理なローン返済をしていた場合ということでしょうか
仕事が今まで通りできるのであればほぼ適用外でしょう
手続き後から毎月家計簿をつけて資産状況の提出をし
1年間続けましたが、弁護士の回答としては
『ガイドラインの適用にはならないので
一定の弁済を行って債務額を減らしたうえで再度支払金額を見直す
リスケジュールを実施するか
北広島市や新札幌近辺で中古住宅を購入もしくは
新築し新たな住宅ローンを乗せて組む際に
従来のローンを乗せて組んでいくということかと
(銀行が必ずしも応じるという話ではありません)』
という回答でした
厳しい結論です
一般的にはとても救済措置とはいえないものでしたので
今後の参考になればと記しておきます
<被災エリア外での体験談>
守谷眞一氏著書 「時を刻んで」より
(1)地震の発生
激しく揺さぶられて、思わず飛び起きた。
平成三〇年九月六日の午前三時過ぎのことだった。家がミシミシと悲鳴を上げ、二階から
は物が倒れる音がする。明らかに今まで経験したことのない規模の地震である。今にも天井
が落ちてきそうな恐怖すら感じる。妻も飛び起きて玄関に急いでいる。妻の動揺を抑える
ために、私は「すぐおさまるから」と声を掛けながら、急いで妻のいる玄関に向かった。
玄関で妻に非常用の袋を持ち出すように伝えているうちに、いったん振動が収まった。
直後に停電が始まり、部屋は真っ暗なまま。まずは懐中電灯を探して点灯する。停電のために、
TVで情報を得ることができない。急いでラジオをつける。その間も余震が絶え間なく続く。
ラジオでは胆振東部で震度六強(後ほど七弱に訂正)の地震が発生して全道が停電になって
いることを繰り返し伝えていた。
伝えられた北広島市の震度は五弱。今まで経験したことのないような大きな揺れだった。
(2)地震の被害
まだ薄暗い朝の六時頃だったと思うが、玄関をノックする音。こんな早くから何事かと
訝って出てみると、消防署員が立っている。このあたりを巡回しながら、自主避難を勧めて
いると知った。
彼から、この団地の坂下の地域で大きな被害が出ており、三メートルも陥没したところや、
傾いている家が相当数あるとの情報がもたらされた。そう聞いてもぴんと来ない。絶え間ない
余震から、我が身を守るのが精いっぱいの状態で、周囲の状況を確かめる術もない。同じ団地
内なのに、この時点で初めて情報を得る。
やっと夜が明けて明るくなり、二階に上がってみたら、神棚の物が下に落ちて散乱していた。
神棚は高い所にあるから、特に派手に散乱している。仏壇も焼香用の灰などが下に落ちている。
書斎に入ってみると、窓側の本棚が一つ倒れて机にもたれかかっており、ほかの本棚の本も
散乱して部屋中にちらばっている。まるで、足の踏み場もないほどだ。
さらに、二階の居間では、サイドボードの食器などが割れてこれまた散乱。家具の転倒は
本棚一つで済んだが、小さな物の散乱が激しい。
こんな時に慌てて元通りにすると、余震が来てさらに被害が出るという。といっても、神
棚や仏壇をそのままにしておくわけにはいかず、最優先で最低限の片づけに入った。
ラジオの報道では、開店が可能なスーパーやコンビニでは、必要なものを買い求める人で
長い列ができているという。幸い断水はしなかったので、今のところは水の心配はない。
停電が長引いていて、炊飯器でご飯が炊けない。まずは食料の確保が一番の課題となる。
カップラーメン、パンなど当面の非常食になりそうなものをできるだけ手に入れる必要があ
る。といっても、車で行こうにも交差点の信号機がストップしているままで、こんな時に車
の事故など起こしては大変。思いついて、九時に徒歩で近くのボストンベイクに行く。開店
していて、来店している人数はそうでもないが、棚のパンが極端に少なくなっている。すで
に、買い求めた人が多いのだろう。とりあえず、三から四食分を目途にしてパンを買う。会
計では、停電のためにレジが使えずに、電卓を打っている。もちろんレシートは発行されない。
次に、近くの産直市場に買いに出るが、駐車場は一台の空きもなく、人々が駐車場の周り
をずらりと並んでいる。玄関では係が、入場制限をかけているので、どれくらいの時間を
待ったら中に入れるか見通しが立たない。思いついて、近くのコンビニに向かう。駐車場は
一杯。停電なので店内は暗い。ぱん、弁当、カップ麺などの類は一切売り切れている。仕方
なく、お菓子を買い求める。どうしても食べ物がなくなった時の非常食のつもりである。
妻は、万一の断水に備えて、バスタブに水をため、なべなどあらゆるものに水をためてい
る。ビニール袋にも水を溜めだしている。幸いなことに断水がなく、結果として無駄になっ
たが、必要かつ大切な措置だった。
その後も頻繁に余震があり、そのたびに玄関に向かう。六日からなんと八日まで停電が続
く。夜になると、照明は懐中電灯頼み。蝋燭の火は、余震で倒れることを考えると使いにく
い。夜が明けてくるとホッとする。
八日の夜八時ころ、「ピンポーン!」と玄関から音がする。こんな時間に誰かと思ったら、
「私」の声。弥生がカップ麺などをもって訪問してくれていた。真っ暗な中、岳弘さんや春樹
も顔を出す。とても心強く感じ感謝する。彼らの訪問の最中に、街灯がついていることに気
づき、ブレーカーを戻すと、ぱっと明かりがついた。明るいことへの安心感、その有難さを
今更ながら感じたものだ。次の日に、強が成央と胡花を連れて訪問する。こんな時、顔を出
してくれるのは嬉しい。特に孫の顔を見るとほっとする。
私の家屋には大きな損傷がなかったものの、大曲川沿いの家が大きな損害を受けた。全壊
十七件。土壌が大きく陥没して家が大きく傾いたり、損壊したりしている。理髪店の「バー
バーパパ」に至っては。土地が全体的に三mも沈下してしまった。本当はすぐに駆け付けて、
励ましの言葉をかけるといいのだろうが・・・。言葉がみつからず、なかなか足が向かない。
ほとんど被害のない自分が、壊滅的な被害を受けた人に、どんな声をかけたらいいのか。
こんな事態の時に、迅速に対応できない自分が情けない。
札幌では東区の他に、清田区里塚に大きな被害が出たとの報道があった。里塚一条二丁目
付近と聞いていたので、旧道沿いの郵便局の辺りを思い浮かべていたら、なんと板倉氏の周
辺の被害が大きいという。彼自身も家が傾く被害を受けていた。杉本氏と別件で電話してい
たときに、彼の口から聞いて思わず絶句。板倉氏にはなんと声をかけたらいいか。すぐに、
電話したもののうまく言葉にならない。慰めをいっても仕方なく、どのように力になれるかも
思いつかない。とりあえず会おうと、杉本氏と一緒に避難所の清田体育館に駆け付けたが、
既に退去していた。被害を受ける・受けないは紙一重ということを実感させられたできごと
だった。災難はすぐ身近にある。
<震災前のBエリア>
Google地図に震災前のBエリアの住宅が残っています
この先消えてしまう前にここに残しておきます
<震災前のAエリア>
解体撤去された住宅
<震災前のCエリア>
解体撤去された住宅
懐かしい景色です
今は跡形もなくなりました
<発災当初の避難所では>
地震発生当初、避難指示があったのは並木3丁目エリアだけでしたが
大規模停電が起きたことで全ての避難者が受け入れられ、体育館はどんどん人が増えていきました。
市内の情報が全く入ってこなかったので、他地区の被害も大きかったのだろうと思っていましたが
結果的に家に戻れないほどの被害があったのは並木地区だけで、我々との温度差はとても大きかったのです。
すぐにお見舞いに訪れた市長も市職員たちも現場を見ていなくて、事の重大さがわかっていないようで失望しました。
家のことが心配で(水道管の処理がされていなくて水没しかけていた)
担当者と連絡をとりたいと訴えてもとりあってもらえず、イライラが募っていきました
避難所には発電機があったので、玄関口に携帯電話の充電機が設けられましたが
入り口前は順番を待つ人で溢れ、2階のギャラリーも開放される始末
寝食をここで過ごすしかない我々は、ただでさえプライバシーもない中、いたたまれない心境でした。
トイレもいっぱい、駐車場もいっぱいになって、車で被災した家に荷物を取りに行って
戻って来ると止める場所もなくなっていて、やるせない気持ちでいっぱいになりました
初日は煌々とつけていた体育館の明かりが、2日目の朝には入口側の1列しか灯されなくて
食事の時間には明るくなるのだろうと思ったのに、朝食時も昼食時もそのままで
薄暗い中で与えられた食事をとりました。
なにか理由があるのだろうかと職員に訊ねると
「携帯電話の充電に発電機を使うので、照明を落としています。」と言われました。
胸が締め付けられ、愕然としました。
「そうですか。私たちは帰る家をなくしてただでさえ気持ちが沈んでいるのに
真っ暗な中でご飯を食べなくてはならないのですね。」
込み上げてくる言葉を抑えることができませんでした。
まもなく体育館の全てに明かりがつきました。
停電が解消されて並木地区以外の人達はほぼ帰宅していき、少し落ち着いた感じになりましたが
「また大地震が来る」というデマが流れて 、再び多くの人が押しかけました。
でもその様子はもうピクニック気分で、走り回る子供達とコンセントを占領してゲームをする子たちで
あきらかに並木地区の住民の状況とは違い過ぎて、より大きな温度差を感じました。
並木地区のみなさんの意向を集めて、並木地区だけで隣の会館に移れないかと要望したところ
聞き入れていただけてようやく静かに避難生活が送れるようになりました。
ペットの犬や猫と避難された世帯もありましたが、一室をペット同伴の部屋にしていただき
一緒に過ごすことが出来たことはとてもありがたいことで
高齢のご夫婦や一人暮らしの方々の心の支えになったことに違いありません。
避難所では普段挨拶程度のお付き合いだった方々とも、日に日に助け合いの絆が生まれて
色々と話しをして気を紛らわすことができました。
しかし、体は正直なものでストレスから血圧が上がってしまったり、熱が出て病院に搬送される方もいました。
避難所では食料品と日用品は準備されていましたが、着替えはないため着の身着のままで避難した時のまま
何日も同じ服を着ているのを見かねて近所の方々が下着や洋服を譲ってくれて本当にありがたかったです。
親戚や知人が心配して避難所に連絡をいれようとしたが
大曲並木地区の避難所だけが新聞等に載っていなかったとあとで聞きました。
被害にあったことも何日か経ってから報道されましたし
そこの対応に関してはとても残念に思います。
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<発災から4日目(9月9日 )家が水没しそうになる>
地震の直後にちぎれた水道管の水は止めたはずなのに、どこからか水が流れてきて陥没した所に溜まっていきました。
どうしていつまでも止まらないのか調べて欲しいと市や消防に訴えていましたが
なんの対処もしないまま4日目を迎えました。
夕方、家を見に行くと水量は床近くまで来ていて、このままでは水没して家財までも失うし
隣の息子の家を支えている杭の周りの土も崩れそうだったので119番して
「家が水没しそうです!助けて下さい!」と訴えました。
すぐに駆け付けた消防署員たちは、状況を見てこれは市の土木でないと汲み上げることができない
(消防はきれいな水だけ、汚水は土木が担当)といい市に連絡してくれましたが
そこから委託業者と連絡をとりはじめて一向に作業が進まないまま時間だけが過ぎました。
業者が来るまでの間に近所の設備関係にお勤めの皆さんが集まってくれて
水の出所を突き止めて腰まであるような水の中に入って止めてくれました。
本当に助かりました。
結局隣の家の水道管もちぎれていて、それを止めていなかったことが原因でした。
ようやく業者が到着して、水を汲み上げる作業をはじめましたが
つないだホースが短かったり、何カ所も小さい穴が空いていて漏れまくる始末。
更に吸い上げた水を川に流そうとしていたので、川の方に家が滑り落ちているのにそこに流すのはやめてくれと止めました。
結局マンホールに流して、ようやく水は抜けた頃にはすっかり暗くなっていました。
通報から5~6時間の出来事です。
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<家は全壊、家具も家電も衣類も全て失った>
あの日、1階で寝ていたら揺れが来て、いつもの地震だと思っていたら
だんだん揺れが大きくなり、ドーン!と下に落ちたのがわかった
揺れが収まって居間に行くと、割れた食器が散乱してて
これは掃除してからじゃないと怪我すると思った
真っ暗な中、フラフラ壁にぶつかりながら2階から弟が下りてきて
「なんかクラクラしてまっすぐ歩けないんだけど・・・」
と言って家が傾いているという状況をまだ理解してなかった
同居していた母の部屋に行ったが扉が開かず
外に出ようと玄関を開けたら絶壁のようになっていてとても出られない
消防にも電話を掛けたが、「怪我人が優先だから」と言われて来てもらえず
みんなが自分のように大変なことになっているんだと思って諦めた
しばらくして近所の方々が声を掛けてくれ、手を貸してくれて
窓から母を抱きかかえて救出してもらった
とにかく逃げることで精一杯で、着の身着のまま
貴重品だけ持って車に乗り込んだ
認知症の母を連れて避難所は無理だと思い、江別の姉夫婦の元へ避難した
停電で信号機がない中、たくさんの車が行きかってて怖かった
その後も危険だからと家には入ることが出来ず
家具も家電も衣類も何も出すことが出来ずにすべてを失った
いつまでも姉の家にいるわけにもいかないとみなし仮設として公営住宅へ移ったが
生活用品が何一つないので部屋は空っぽ
知り合いからテレビや冷蔵庫をもらってなんとか生活をはじめられた
認知症の母はいくつか施設に入所させたがなかなか馴染めず
仕事と介護で毎日が地獄だった
半年経ってやっと落ち着いた頃、道の職員から連絡が来た
公営住宅のみなし期限は1年間
1年後の更新をどうするか決めてくれと言われる
こんな状況なのに半年で何ができると職員に訴えたが
決まりだからとなしのつぶて
1年後、まだ住むところが決まらなかったのでそのまま住むことにしたら
払い込みの名称が「家賃」ではなく「違約金」になっていた
被災者に対しても非情な行政だった
今は知人の紹介で新しい住居で生活をしている
気持ちをぶちまけて電話を切る
そして結局は自分でなんとかするしかないの繰り返し
そんな2年でした
M氏談
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<窓から出たら体が半分、地面にはまった>
いつもの地震だろうと思ったのに、頭の方が下がっていた
川側の部屋で川を頭にして寝ていたので、家が傾いたことはすぐにわかった
隣のおばちゃんが「大丈夫?!」と声を掛けてくれて「大丈夫!」と答えたけど
玄関が開かなくて全然大丈夫じゃなかった
家の裏(川側)の窓が開いたので
嫁と娘を脱出させようとまずは自分が窓からポンと下りたら
ズボッ!っと体が半分地面にはまった
家との間の地面に亀裂が出来ていて、そこにはまってしまった
自力で脱出して、家にあったコンパネを敷いて二人を救出した
家の前に止めてあった車はギリギリ亀裂に落ちていなかったので
すぐに近くの実家へ避難した
後日、家の荷物を出すのに引っ越し業者に連絡したら
全壊の家の引っ越し作業は出来ないそうで
家の中の物を自分で外に出せば運んでくれるといわれた
家の前もかなりの段差があったので
そこにも板を敷いたり階段を作ってやって荷物を運んでもらった
地震後、嫁と娘はエレベーターで下に降りることが出来なかった
N.T氏談
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<9月6日は引っ越しだったのに・・・>
9月6日はリフォーム中の住宅が完成して、仮住まいの並木の家から引っ越す日でした。
前日からの荷造りが夜中までかかってて、地震が起きた3時7分も起きていました。
大きな揺れに妻は立っていられない状態で、私はハッチ(食器棚)をおさえるのがやっとでした。
新居が心配になって2回目の余震が来る前に家をでました。
床屋さんの前に人がいっぱいいましたが、暗かったので「なんでだろう」とは思いながら通り過ぎました。
向かった場所は「里塚中央」
並木同様、甚大な被害のあった団地です。
36号線から団地に向かうといつもは左に曲がるところを
前の車が急に徐行してゆっくり右に曲がったので、遅いなぁ~と思いながら直進したのです。
そして目の前に広がる景色に唖然としました。
あそこで左に曲がっていたらどうなっていたことか。
もし旧道から行っていたら辿り着けませんでした。
結局家の前まで車では行けなかったので、途中に置いて歩いていきました。
完成したばかりの家は無残にも傾いてしまってました。
更に同じ団地内に住む両親宅、兄夫婦宅も同じように被災してしまいました。
北海道新聞 2018.9.20 配信写真より
ひとつだけ不思議なことがあって・・・
ハッチの上に置いていた中身の半分入った1.5ℓのペットボトルは
棚から落ちなかったのに底が押し潰されたようにぺしゃんこになっていました。
なんでそうなったのか今でもものすごく不思議なんですよ。
I氏談
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<もう戻れないなんて思わなかった>
地震の前に台風が来たでしょ。
もう怖くて怖くて全然寝られなかったの。だから地震が起きた時は熟睡してたのね。
『ドン、ドン!と2度鳴ったよ』ってあとで言われたけど1回目のドン!には気づかなくて
2回目のドン!で飛び起きたの。
2階から下りて居間に入ろうとしたらドアが開かなくて
1階で寝ていた主人を呼んだけど返事がないでしょ。
なにかあったんじゃないかと呼び続けていたら
『たすけてー!家が壊れたー!!』
って外から居間の窓を叩きながら叫ぶ女の人の声が聞こえたのよ。
主人はその窓を開けようとしたのだけど、どうやっても開けることができなくて。
地震のせいで窓が歪んでしまったのよね、きっと。
その女の人は家の裏に住む奥さんで、赤ちゃんを抱えて必死で助けを求めていたそうです。
お向かいのご主人が駆けつけてくれて助けられましたが、今度はご主人が居間に閉じ込められた状態になって。
なんとか居間のドアを開けようと中から主人が、廊下から私が押して、2人がかりでやっと開けたの。
そうしたら玄関のほうから
『奥さーん!大丈夫ー?』
って隣の奥さんの声が聞こえたから、ドアを開けようとしたんだけど今度は玄関ドアが開かないのよ。
玄関前の風除室のガラス戸が外れてドアに倒れて塞いでいたそうです。
(玄関前)
「ドアが開かないの~!」
もうどこからも出られず家に閉じ込められてしまったそうです。
どうやって出ようか困っていたら、お向かいのご主人がガラス戸をよけてくれて
ようやく玄関から出ることが出来たそうです。
「お向かいの旦那さんは命の恩人だわ!」
外に出るまではこんな酷い状況だと思わないから、パジャマ姿で外にでちゃったけど
みんなは服を着てたよね~
とちょっと笑って話してくれました。
十数年前にリフォームをして、春にも窓や屋根と塗装もして
これで老後は安心と思っていた矢先の地震。
家は傾き、窓は歪み、開いた玄関ドアはもう閉まらなくなりました。
「あ~もうどうしたらいいのか・・・」
(正面右側の家)
消防が来るまで呆然としゃがみこむしかありませんでした。
少し明るくなった頃、何が起きてるのかと驚いた顔をした新聞配達の人から
「東です!」
と言って新聞を受け取ったけど、その時はまだ家に戻れると思っていたのよね。
東 孝子さん談
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<地震が人生を一瞬にして変えた>
2018年9月6日午前3時7分、突然突き上げるような振動に飛び起きました。
揺れは今までに経験したことのない凄まじい上下振動に、ガチャガチャという金属音を伴い、
いつまでも収まる気配がなかったので這うように寝室から出ました。
川沿いに建つ我家の寝室は2階の川側に位置していたので、地震の際はいつも道路側の部屋に逃げるようにしていました。
あの日も同じようにして長い揺れが収まるのを待ちました。
その時点では傾きは感じなかったものの少し違和感を覚えて、2階の中央にある窓のカーテンの隙間から恐る恐る外を覗きました。
いつもなら隣に建つ息子の家の2階の窓が真正面に見えるはずなのに、なぜか家自体が左上にそびえるように建っているではないですか。
(1階リビングの窓から)
えっ?うそっ・・・
「家がずれてる?!落ちた・・・」信じられない光景に愕然としました。
主人に告げると二人でその状況に唖然としました。
これは市内中が、いやもしかしたら北海道が大変なことになったのではないかとも思ったのです。
家が離されて電線が切れてしまったので、この辺りは地震直後からブラックアウト状態。
とりあえず外に出なければと暗闇の中、着替えて1階に下りました。
あれだけの衝撃があったにもかかわらず壁の絵も落ちていない、テレビも倒れていない、
食器棚もそのままで食器も散乱していませんでしたが、玄関に行きドアを開けて改めて衝撃が走りました。
地面はえぐれて敷き詰めたレンガはぐちゃぐちゃで出られる状態ではありません。
(川側から見た玄関前)
何より息子の家の床下よりも低くなっていてパイルが目の前に見えました。
こんなに落ちてしまったのかと震え上がりました。
庭の構造物(ガゼボやアーチ)も倒れて逃げ道を塞いでいたのでそこから出るのを諦めて店から出ようと移動したのですが、
店のドアを開けたらそこは絶壁。
(店の入り口前)
基礎下まで地面が陥没してとても自力で脱出できる状態ではありません。
前面の駐車スペースの土も大きくえぐられたように陥没していて道路は見上げる高さにありました。
春に敷いたばかりの駐車場のアスファルトはヘビのようにうねうねと残った土の上にちぎれて乗っかっていました。
(道路川から)
そしてジャバジャバと水の音が・・・。
道路から引き離されたことで水道管がちぎれて水が陥没した所にどんどん流れ落ちていました。
いくつかの懐中電灯の光に照らされて、こちらからは誰なのか判断できなかったのですが
「大丈夫か!床屋さんが大変なことになってるぞ!」
という声に近所のご主人たちが集まって来てくれて、梯子をかけ手を貸してくれて助けていただきました。
道路にあがってみると土地ごと家が陥没したのはうちだけ。
よく家が崩れなかったものです。この落差がありながら信じられないほど水平を保っていました。
家に命を救われました。
もし大きく傾いていたら・・・と考えるだけで恐ろしいです。
救出されてから辺りを見てみると、並びの住宅も傾いたり家の前の土が陥没して車が空を見上げていたりと
だんだん被害の状況が明らかになっていきました。
居間の窓が割れたり玄関ドアが閉まらなくなった家、倒れたカーポートで玄関ドアが塞がれてしまった家、
家の下の土が半分崩れて宙に浮いている家、そして隣の息子宅はうちの陥没した土砂に杭を1本もっていかれて
土中に飲み込まれたのかどこにも見当たらない。
なんて恐ろしい力なのでしょう。
のちに気が付いたのですが庭にあった大きな鉄製のカップと台座、
それと石膏製の大きなカップ型の鉢が2個も土に埋もれたのか見つかっていません。
この地震が日中に起こったらお客さんの車は落ちていたし、庭作業をしていたら土砂にのまれて地中に埋まっていたかもしれません。
みんな着の身着のままで飛び出して、ただただ茫然と道路にしゃがみこむしかありませんでした。
地上ではそんな惨劇が起きているのに空は小さな星までひとつ残らず光って見えるほど満天の星空で、
今にも落ちてきそうなほど近くに見えて綺麗というより気持ちが悪くてゾッとしたことが忘れられません。
更にボーっという低い音がいつまでも鳴り響いていて、あれが地鳴りというものなのでしょうか。
まるで映画のシーンのようでした。
私達を助けてくれた近所の方々は他の家も見て回って、脱出できなくなっていた高齢の女性を救出したりと駆け回ってくれていましたが、
ここ一帯以外の方々が外に避難する様子は確認できませんでした。
相変わらず止まることのない水をなんとかしたくて消防に電話をしましたが、
怪我人がいないというとすぐには来ていただけませんでした。
きっとあちこちでこの辺りと同じようになって対応しているのだと諦めてただただ待っていたのです。
結果的に地震直後から3時間、陥没した家の前で飛び出した姿のまま座り込んでいました。
どうしたらいいのか、どこに避難すればいいのか、誰が対処してくれるのか何もわからないままみんなで茫然としていたのです。
9月に入ったばかりの気候でしたのでそういう状況でもいられましたが、これが真冬だったらと思うと考えただけでゾッとします。
まして車も使えなくなっていた方もいたので、待機するにも移動するにも大変な状況です。
それからどれくらい経ったか消防が来た時にはもう明るくなってきていました。
避難する場所もなかなか決まらず、避難所に着いたときにはすっかり朝になっていました。
そしてそこでも鍵が開いていなくてまた外で1時間ほど待つことになりました。
すでに4時間近く経過していてみな憔悴しきっていました。
ここでようやくこの辺の震度が5弱だったことを知りました
一緒に避難した息子一家には6ヵ月の子供がいたので、すぐにお嫁さんの実家の神奈川に避難させようと飛行機を手配しましたが、
まもなく新千歳空港も閉鎖されてしまって、そのままみんなで避難所の体育館で過ごすことになりました。
息子宅は2月に完成して4月から住み始めたばかりの家でしたが、たった4か月で全壊となりました。
道路向かいの主人の実家も半壊の被害にあい、一人で住んでいた高齢の義母も連れて避難しました。
親子4世代が被災するという最悪の事態。
家を失い、土地を失い、職場も失い、地震が人生を一瞬にして変えてしまいました。
竹内友香談
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<地震の前に地鳴りがして・・・ >
「もし寝ていたら死んでたかもしれない。」そう語ったN氏。
あの日は、夜中の3時だったけどたまたま起きてました。
突然、低くゴゴゴゴゴッー!って音が聞こえて
「あ、これ死ぬやつだ・・・」
と思いましたね。
とっさに枕元の重い本棚を押さえると激しい揺れが来て
押さえた本棚以外の物は全部倒れて家中グチャグチャになりました。
もし布団で寝ていたら本の下敷きになって死んでましたね。本が重いので・・・
余震が怖いのですぐに知人宅に避難したそうですが
暗かったので近所がこんな被害にあってることに気づかなかったそうです。
「とにかく星が物凄くきれいだったよね。」
と話してくれました。
N氏談
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<家が、落っこちている・・・>
「今日は、早く帰るね。 今晩から台風が来るから」
職場から早々に帰宅し、外周りなど台風への準備をした。
2018年9月5日未明から早朝にかけて 台風21号が道内全域に雨・風をもたらした。
道民我々にとって、久しぶりに猛烈な台風であった。
一晩中暴風雨状態がつづき、家の前の道路では右から左へ水平に雨が、次から次へと飛んでくる。
家の前のカーポートが、揺れて今にもどこかへ吹っ飛んでいきそうだ。
「車を斜めにおいて、カーポートに直接風が当たらないようにしよう!」
ベチャベチャになりながら、自動車を移動した。
カーポートの揺れは少しおさまったが、車の揺れも尋常ではない。
車がひっくり返ったりしないだろうか?
心配で一晩中窓の外から目を離すことが出来なかった。
夜が明け、台風も過ぎ去った。ひどい寝不足であったが、カーポートが飛び近所に迷惑をかけることもなく、少しの満足感があった。
ニュースで、他の地域の被害状況を知った。
最大瞬間風速42.4メートル けが人続出、農作物の被害など。
大変だなと思った。 でも、自宅に被害がなく、良かった。
その晩、少しのやりきった感でビールを飲んだ。
そして・・・
2018年9月6日 3時7分 「北海道胆振東部地震」が起こった。
突然の爆発したような揺れに叩起こされた。
ベットの上で飛び跳ねるように、ベットから転げ落ちるように。
「でんき、でんき~」手元のスイッチでは、点かない。
壁のスイッチでも点かない。「停電だ・・・」
「キャーッ」遠くから、悲鳴のような叫び声も聞こえる。
「何だ??」
「おとうさーん」妻の声が聞こえる。
昨日の台風のために用意していた懐中電灯が手元にあった。
灯りをもって、居間へ向かう。
「大丈夫か?」妻の無事を確認し、家具も倒れたものもない。
急激な揺れのためか、若干の目まいを感じるが、
被害は、皿が2~3枚食器棚から飛び出し割れている程度か?
「一応、外も確認してくるわ」
正面の玄関ドアの鍵をあけ、勢いよく外へ出ようとした。
「ガンッ!!」何かがドアに当たり、数センチしか開かない。
「えっ、何かが起こっている!!」
裏口から外へ出てみるが、あたりも真っ暗だ。
懐中電灯で、正面道路のほうを照らし、愕然とした。
道路との段差が1メートルほどあるのだ。
「えっ?」
その段差を乗り越え、正面道路へ出てみた。
「家が、落っこちている・・・」
家の前に駐車していた乗用車も車体半分が落っこちている。
昨日守り抜いたカーポートも、ぐんにゃりとひん曲がって正面ドアを塞いでいる。
からだが震えた。
「何これ? 何これ? 何これ?・・・・・・」
何度言っただろう。
家の中に戻り、妻に言った。
「もう、おれの人生終わったわ。」
(明るくなってから撮った写真)
M.T氏談
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〈家の夫、見ませんでしたか〉
地震時は就寝しておりました 。
ドンと突き上げられ ドドド ドン ドドドという音と 細かい揺れからゆっさゆっさと大きな揺れなかなか収まらない
ガシャガシャと物が落ち愛猫がパニックを起こして走り回り、私は布団から四つん這いになり家の中央にある居間へ
その時、あれっ?何か登り?
揺れてる最中パチーンという音と共に真っ暗になり暫くして揺れがおさまりました。
静寂の中、ボーっという低い音がして気持ちが悪いなぁとか停電の時ってこんな感じだったかなぁ?
とか訳の分からない事を考えていましたが、恐怖で体がガタガタと震えていました。
夫が2階から「大丈夫か?」と叫びながら降りてきて玄関に置いてある懐中電灯を手探りで探いていた時「ぎゃー!助けてー!」と 女の人の声が何度も聞こえてきました。
夫は懐中電灯を持って飛び出して行きました。
直後、夫から「預かって!」と言われ暗闇の中、手を出すと誰?女性?真っ暗闇でしかも物が散乱している居間のソファーへ
取り乱して泣いてる彼女に「大丈夫だよ!大丈夫だからね!」と 何の根拠もない大丈夫を言い続けていました。
2つ目の懐中電灯が見つからず 仏壇のロウソクに火をつけました。(本当はダメです!余震でロウソクが倒れて火事になる危険があります)
うっすらとした光が彼女の腕の中に生後1年にも満たない赤ちゃんが抱かれていました。
彼女は裸足、しかも傷だらけ母親の子を守る本能と愛を見ました。
彼女と赤ちゃんの屈託のない愛くるしい瞳、お陰で私は冷静になれました。
感謝してます。
暫くして彼女の旦那様が迎えに来て、車で避難された後体の震えがおさまらないまま懐中電灯片手に帰って来ない夫を探しに家の外へ
家の外階段が一段分落ちていて転げそうになりながら階段を降り周りを見渡して驚きました。
暗闇の中で近所の人達が着の身着のままで力なく立ち尽くしていました。
「家の夫、見ませんでしたか?」と尋ね歩きながら目の前の被害の様を見て絶句しました。
家が1メートル程落ち、カーポートが玄関を塞ぎ、車が斜めになってる家、車ごと落ちてしまった家
真ん中辺りで折れてる家々、家屋の下の土が落ちて今にも川に落ちそうな家、道路から引きちぎられ川の方へ大きく家がずれて
土がぐにゃぐにゃしていて、脱出不可能と思えるような家被害の大きさに改めて恐怖を感じ
夢であって欲しいと思ったのと同時に皆、被害があったのだと
携帯電話が通じるうちにと思いつくまま友人に電話をしました。
手が震えて上手く操作できず、もどかしかったのを覚えています。
夫を探しつつ町内会の同じ班の方の無事を確認して歩いていた時 、消防車が来ました。
「通報した方はいますか?」
「あー私です!」
通報者が複数人にる中に夫が居ました。
数時間、懐中電灯片手に出ていったきりの夫にやっと会えました。
藪蚊におデコを8箇所刺されていましたが、怪我もなく無事でホッとしました。
暫くして規制線が張られ避難所へ行くように促され、家に入れない状態の方々は避難所へ向いその頃にはうっすらと明るくなってきていました。
明るくなって分かったのですが我が家の敷地前方3メートル程、全体が下がっており、それに伴い塀が下へ20〜30センチめり込み土を含んだ水が湧き上がっていました。
家屋の前方が傾き、家の中心にある居間の床が盛り上がったようになってしまいました。
地震時に登りに感じたのはこのせいだったんだなと納得がいきました。
片付けをしようと家の中へ 冷蔵庫の中身はぶちまけたように散乱していて道路側の部屋はプリンターが落ちて書類や色んなものが散乱していたのに
お皿が一枚も割れなかった。
とても不思議に思いました。
我が家は飼っている猫のストレス、夫の意向もあり避難所には行かず家で過ごす事にしました。
しかし車が家の前を通ったり、余震で震度1であっても震度3程の揺れが生じ、その度に猫も私もパニックをおこし、とても家にはおれず、猫を連れ夜は車で寝ました。
車中、これからの事を考えてとても不安になりました。
三野宮正子談